嘘の種本について 2 (猿の生肝)

先には、吉四六話の「うその種本」と、ブルガリア民話などについてみてきたのですが、この話の原型を想定すると次のようなものになると思います。


うその袋

  知恵者A と 知恵者B が出会う。

知恵者A お前は、嘘の名人だそうだな。どうだ俺と嘘比べをしよう。
知恵者B いいですとも、でも今はだめです。嘘を詰めた袋が家にあるので、取りにいかなければね。
知恵者A 分かった、早く取りに行け。

 知恵者Bは、そのまま戻ってはこず、知恵者Aは、待ちぼうけを食らわされる。その後、再び両者は出会う。

知恵者A この前は、よくもすっぽかしてくれたな。
知恵者B まさかあなたは、嘘の袋が家にあるなどということを本気にしたわけではないでしょうね。


さて、この話の原型を更に遡ると次のインドの説話に行き着くように思えます。


パンチャタントラ4 サルとワニ

 何が起ころうとも慌てず、忍耐強い人は、あのサルのように、どのような危機であれ、容易に乗り越えることができる。

 海辺に一本のジャンブーの木があった。その木は一年中いつでも、ジャンブーの実をたわわに稔らせていた。そして、その木には、ラクタムカという名のサルが住んでいた。このサルは、大きくて美味しいこの果実を食べて満ち足りた暮らしをしていた。
 ある日のこと、ワニが海から出て来て、その木の下に座った。サルはワニを丁重にもてなし、ジャンブーの実を差し出した。ワニは今までに、こんなに甘い果物を食べたことがなかった。ワニはサルとしばらく話してから、海の中へと帰って行った。

 それ以来、ワニは毎日浜辺へやって来るようになった。そして、サルは甘いジャンブーの実をワニに与えた。こうしてワニとサルはうちとけてすぐに友達となった。
 ある日のこと、サルはジャンブーの実をワニの妻にもやるようにとワニに持たせてやった。そして彼女も、その甘い果物を堪能した。それ以来、ワニは妻のために、毎日果物を持って帰った。

 ある日、ワニの妻がこんなことを言った。
「あなた。サルは、こんなに甘い果物を毎日食べているのだから、その心臓はどんなに甘いかしれません。あたしは、サルの心臓が食べたいわ」
 ワニは、親友のサルの心臓など持ってこれないことを妻に分からせようとした。・・・・「私に彼が殺せるはずがない」

 ワニの妻は嫉妬に駆られて言った。
「あなたが、誰に会いに行っているのか、あたしはちゃんと知っているのよ。サルと会っているなんて嘘っぱちよ。あたしよりも可愛い牝ワニに会っているのよ。あなたは、一日中その娘といちゃついているのよ」

 こうしてワニの妻は、ありとあらゆることを言い募り、しまいには自分は死んでしまうと言って夫を脅した。ガミガミと言い立てる妻に、夫のワニは困り果て、その日、ワニはとても遅れて、浜辺についた。サルは、友達が来るのを今や遅しと待っていた。

 サルは、ワニがやって来ると、なぜ遅れたのかと尋ねた。

 ワニはこう答えた。「妻が、私の友である君に会いたがっているのだ。君は私にいつも甘いジャンブーの実をくれるのに、私は君を一度ももてなしたことがない。それはとんだ恩知らずだと妻が言うのだ。そこで妻は君を夕食に招待しようと、準備を整えていたのだ」

 サルは喜んで招待を受けると、こう言った。
「ところで、深い海の底にある、あなたの家に、わたしはどうやって行けばよいのですか?」

 するとワニは、家は海の中にあるのではなく、小さな島にあるから心配いらないと答えた。サルは嬉しそうに木から飛び降りると、ワニの背に跨った。ワニはサルを背中に乗せて、家へと向かった。

 しばらく行ってから、ワニはサルに本当のことを語った。
「君を家に連れて行くのは、妻に甘くて美味しい君の心臓を食べさせるためなのだ」

 サルは話を聞いて、こう言った。
「友よ! なぜ、もっと早く言ってくれなかったのだ? そうすれば、ちゃんと持ってきたものを・・・心臓は木の上に置いてきてしまったよ」

 ワニはびっくり仰天したが、それが嘘だとは思わなかった。サルが、心臓を取りに引き返すようにと促すと、ワニは何の疑いも持たず、浜辺へと引き返していった。サルは浜辺につくと、すばやく木の上にのぼった。ワニは、サルがいつまでも木の上にいるのを見て、心臓を持って早くおりてくるようにと言った。

 するとサルが答えた。
「消えうせろ、そして二度とここには来るな。おまえは、私の信頼を裏切ったのだ。そしておまえは、愚か者だ。心臓を二つも持っている奴などいるものか!」


 この話からすると、「うその袋」は元々は「心臓」だったようです。昔から心臓とは、意思の宿る臓器と考えられていたようです。例えば、パンチャタントラ4.02 「ロバのランバカルナ」という話では、

 ジャッカルがロバを騙して、ライオンの許へ連れてきて食べようとするのですが、一度目は失敗し、二度目で仕留めます。ジャッカルはライオンが目を離したすきに、ロバの心臓を食べてしまいます。ライオンが戻って来てそれに気づいて怒り出すと、ジャッカルは、「彼には心臓などはじめからなかったのです。心臓があったならば、二度も騙されたりしませんよ」と答えて、一件落着します。全文はこちら

 現在でも、やはり心臓と感情は深いつながりがあると考えられているのではないでしょうか? 「胸が躍ったり」「胸がときめいたり」「胸が苦しくなったり」はするのですが、「脳が躍ったり」「脳がときめいたり」はなぜかしないのです。昔の人が感情は心臓に宿ると考えたのはとても自然だと思います。

 ところで「サルとワニ」の話は、日本の今昔物語や沙石集などにも取り入れられています。


沙石集 5.8 学者のアリとダニの問答 より

 海の中にミヅチという生き物がいる。これは、ヘビに似ていて角はない。このミヅチの妻が妊娠すると、サルの生肝を欲しがった。そこでミヅチは、サルの住む山へと出掛けて行った。
「この山には果実はたくさんあるのか?」ミヅチが言った。
「それが、なかなかみつからないのだ」とサルが答えた。
「俺の棲む海の中には、果実だらけの山がある。来てみたらどうだ」ミヅチが言った。 
 するとサルが言った。
「海の中へはどうやって行けばよい?」
「俺の背中に乗せてやる」
 こうして、サルはミヅチの背中に乗っ出かけて行った。しかし海中をずいぶんと進んだが、山など見えてこない。そこでサルが、「山はどこにあるのだ?」と聞いた。
 するとミヅチが言った。
「海の中に山などあるはずがない。妻がサルの生肝が欲しいというので、それで連れてきたのだ」
 サルは驚いてこう言った。
「そんなことは、山で言ってくれればよいものを、急いでいたので、生肝は山に置き忘れてきてしまったよ」
 ミヅチは、生肝がなくては仕方がないので、「戻るから、取ってきてくれるか」と尋ねた。
「お安い御用だ」
 こうして山へ引き返すと、サルは木の上に登りこう言った。
「海の中には山はない。身から離れて肝はない」
 こうしてサルは山奥へと行ってしまった。ミヅチは仕方なくおめおめと帰って行った。

今昔物語5.25「カメがサルに騙される話」


 日本にはワニがいないので、ミヅチとしたのだと思いますが、今昔物語の方では、話は殆ど同じなのですが、「カメ」となっています。パンチャタントラのアラビア版のカリーラとディムナでも、「カメ」となっているので、日本にも、「ワニ」と「カメ」の二系統の話がかなり昔から伝わっていたのだと思います。

 ところで、今昔物語は、ジャータカ系統の、仏教説話として伝わった話であると言われていますが、どうも沙石集の方は、パンチャタントラ系の枠物語としての影響を受けているようです。沙石集には、「サルとミヅチ」の話が語られる前に、次のような話が添えられています。

ある池で、ヘビとカメとカエルが仲間になった。ところが、日照りが続き、池の水が干上がり、食物もなくなり飢えに苦しむようになった。そんな時に、ヘビが使者としてカメをカエルの許へ送って、すぐ来るようにと伝えさせた。しかし、カエルは、「飢えのひどい時には仁義を忘れて食べることだけ思うようになる。情けもよしみも、世の中が太平なときなればこそであり、このような時には行くことはでない」と返事した。・・・・

パンチャタンラ系の話では、「サルとワニ」の話の後に「ヘビと間抜けなカエル」という話が次のように続いています。

「消えうせろ! 飢えた者はどんなところへも入り込む。貧しい者は慈悲の心を失う。紳士よ! プリヤダルシャナに伝えよ。ガンガダッタは二度と井戸を訪れないと」

 ワニはそれが何のことかわからなかったので、その話をサルに尋ねた。するとサルは次のような話を語った。・・・「ヘビと間抜けなカエル」全文はこちら

 沙石集は、この「ヘビと間抜けなカエル」の話を、要約して「サルとミヅチ」の前に持ってきたものと思われます。


今昔物語や沙石集の話は、その後「猿の生ぎも」として日本の昔話として定着しています。


猿の生きも 鹿児島県大島郡 (日本の昔ばなし III  関敬吾・編 岩波文庫 参照)

 昔、ねいんやの神さまのひとり娘が病気になったので、法者にうらなってもらいました。法者は占いをやって「この病気は、ぜひとも猿の生肝をとって来てさしあげなければ、なおる見込みはありません」といいました。それで、ねいんやの神さまは、犬を使いに立てて遠い国に猿をさがしにやりました。犬は遠くの島へ行って、やっと猿を見つけました。「猿どの、猿どの。お前はねいんやというところへ、見物に行こうと思ったことはないかい」「いちどは見物してえものだと思っているが」「そんならつれていってあげよう。ちょっと俺の腰に抱きついておれば、ねいんやまで目ばたきする間じゃ」というので、猿は喜んで犬の腰にだきつきました。そして、海端へ行って、犬が水ぎわの平石を一ふみ踏んだと思ったら、二人はいつのまにかねいんやへ来ました。

 ねいんやでは、しばらくのあいだ猿を遊ばせておきました。ところがある日、タコと針フグが猿に「これは大変なことになったぞ。ほんとは神さまのひとり娘に、お前の生肝を差しあげることになっているから、お前の命はながくあるまいぞ」と告げ口をしました。猿はたいそう心配したが、何とかして逃げようと思って「つまらんことをした、肝を島に忘れて来た」と、いい出しました。ねいんやの神さまもこれを聞いて、「肝を忘れたとあれば致し方がない、早く行ってとって来い」といって、また犬といっしょに帰してやりました。島につくと、猿は一生けんめいににげて、こんどはどうしてもつかまらなかった。

 あとで、タコと針フグは告げ口したことがわかって、その罰としてタコは骨をうち抜かれ、針フグはうちくだかれて、とうとう骨が外へばらばらになって飛び出し、いまのように針だらけになったということであります。


「猿の生肝」の話は、その土地により色々なバリエーションがあるようです。サルを迎えに行くのはカメであったり、骨を抜かれたのは、クラゲであったりと・・・・、また、最後にサルがカメに石を投げつけて、カメの甲羅にひびが入ったというような話もあります。

 このように見てみると、「嘘の種本」と「猿の生肝」は、源流はインドの説話であり、そこから枝分かれして、現在の形になったように思えます。


資料

昔話タイプ・インデックス 796 嘘の本 (日本昔話通観28 稲田浩二 同朋舎)

昔話タイプ・インデックス 577 猿の生肝

Type 91 家に心臓を置いてきた猿(猫), TMI K544

2001/06/29

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