吉四六(きっちょむ)話 『うその種本』について

吉四六などのとんち小僧の話に、「うその種本」という有名な話があります。話の内容は次のようなものです。


ある日のこと、とんちで名高い吉四六さんは、殿さまに呼ばれます。

殿さま 「そちが吉四六か。お前は、嘘の名人だそうだな、どうじゃ、わしをだましてみよ。もしうまくだませたら、ほうびを取らせるぞ」
吉四六 「ようございます。しかし、嘘の種本を家に置いてきてしまいました。種本がなくては、嘘はつけません。今から取りに参りますので、馬をお貸しください」
殿さま 「その方、わしをたばかるつもりではあるまいな、家来に取りに参らせるから、どこにあるか申してみよ」
吉四六 「はい。仏だんの位牌の後ろに隠してあります」

 こうして、家来が吉四六の家へ行って、嘘の種本を探しますが、いくら探しても見つかりません。仕方がないので、家来たちはお城に戻って、殿さまにこのことを話します。

殿さま 「嘘の種本など見つからなかったそうだぞ」
吉四六 「あたりまえです。嘘の種本など元々ありません」
殿さま 「なんじゃと、この嘘つきめが」
吉四六 「うまい嘘をがつけました。これでごほうびがいただけますね」

こうして、吉四六さんは、殿さまからごほうびをたくさんもらったそうです。


さて、この話と大変よく似た話がブルガリアにあります。


ブルガリアの民話『頓知ペタルとホジャ・ナスレジン』
(ブルガリアの民話 真木三三子 訳・編 恒文社)

 トルコのホジャ・ナスレジンはほら吹きで頓知のきく男であった。ある時、間抜けな人たちをからかってやろうと思い、アナトリアからブルガリアの地にやって来た。ここでほらを吹き、かしこでほらを吹きして、とうとう頓知ペタルの住んでいる村にまで乗り込んで来た。

 二人の知恵者は、教会の編垣の横の通りでばったり顔を合わせた。
「あなたは頓知ペタルさんですか?」
 とホジャ・ナスレジンは尋ねた。
「そうです」
 と頓知ペタルは答えた。
「わたしは、あなたがほら吹ぎで、それがたいしたもんじゃないってことを聞いて知っています」
 頓知ペタルは恥じ入ったように目を伏せた。
「ええ、みんなが取りざたしているだけでして…わたしもあなたのほら吹きがたいしたものじゃないと聞いていますよ」
「じゃあ、くらべてみよう。どっちの嘘がうまいか」
 とホジャ・ナスレジンは言った。
「おお、よろしいですとも。ただし今はだめです。今は嘘を全部家に置いてきてますから。わたしは袋に入れて持ち歩くのですが、使わない時はうちの壁に吊しておくのです。さしつかえなければ、ちょっと待ってくれませんか。家へ走って行って、嘘の入っている袋を持って来ます。それから嘘くらべを始めましょう。どっちの嘘がうまいか」
「早く行って来るといい」
 とホジャ・ナスレジンは言った。

 頓知ペタルは家の方へ走って行った。しかし、途中で喫茶店に寄り、コーヒーを注文したのだった。ホジャ・ナスレジンは、教会の編垣の壁によりかかって待っていた。頓知ペタルは喫茶店に腰を下ろし、コーヒーを飲んだ。こちらでは、ホジャ・ナスレジンが教会の編垣によりかかって立っている。日が暮れるまで待ち続けたが、もうがまんできなくなった。怒り心頭に達し、憎々しげな面持ちでその場を離れた。
 翌日、ホジャ・ナスレジンはまた頓知ペタルに出会ったので叫んだ。
「ペタル、何てことだ。どうしてきのう嘘くらぺに戻って来なかったのだ。ほらを詰めた袋を取りに行くといったくせに、行方をくらましてしまうなんて」
 頓知ペタルは答えた。
「ナスレジンさん、ぽくのおかげで一日じゅう教会の編垣によりかかっていたというのに、まだ嘘が必要なのかな。嘘の詰まった袋を待っておられたのですかね?」
 ポジャ・ナスレジンは一言もなく、舌を噛んだ。


 翻訳者の、真木氏も解説で書かれておられるのですが、このブルガリア民話の背景には、ブルガリアが5世紀にも渡ってトルコの支配下にあったということがあるようです。ですから、ブルガリアの人たちは、支配国の知恵者であるホジャを、自国のペタルがやっつける話を聞いて、溜飲を下げたことでしょう。トルコでは、人々を散々コケにしているホジャも、所変われば、コケにされる対象にされていまうのです。このように、支配国と被支配国、あるいは、隣国どうしの識者が嘘比べや知恵比べをする話は沢山あり、そして自国が必ず勝つことになっているのですが、しかし、だからといって、吉四六話や彦一話などの、殿さまをやり込める話を、民衆と権力者との対立などと単純に決め付けることはできないと思います。

 さて、両者の話は、大変よく似ているのですが、多少の違いもあります。ブルガリア民話では、「嘘の袋」をペタル本人が取りに行き、ホジャに待ちぼうけを食らわせるのですが、吉四六話では、殿さまは用心して、「嘘の種本」を、吉四六本人ではなく、家来に取りに行かせています。

 また、ブルガリア民話では、嘘の"袋"であるのに対して、吉四六話では、嘘の"種本"となっています。「嘘の袋」というのは、なにか、一つ一つ、嘘の塊のようなものが、詰まっているような印象を受けます。一方、「嘘の種本」は、これよりもずうっと洗練されており、現実に、そのような本があってもおかしくありません。

 ところで、「堪忍袋」・「分別袋」・「知恵袋」などの言葉からすると、昔はそれぞれの感情を入れる袋が、実際にあるものと考えられていたように思えます。イソップ寓話(ジュピターの二つの袋)にも、他人の欠点と自分の欠点の入った袋の話があります。 

 文字がまだなく、物事を文書として保存することができなかった頃は、情報を貯めておくのは、全て個々人の記憶力に委ねられていたものと考えられます。
 情報を記録蓄積するには、ジャンルごとに上手に分類することが鍵となります。そうでないと、その記録を取り出そうとするときに、どこにあるのか分からなくなってしまうからです。ですから、図書館では、それぞれの分類法に従って、書棚に本が並べられていますし、Lycos や Yahoo などの検索サービスでは、それぞれの分類法に従って、デレクトリーにデジタル情報が納められています。
 もしかすると、「堪忍袋」・「分別袋」・「知恵袋」などは、それぞれの記憶を分類して蓄積するための書棚であり、デレクトリーの役割をしていたのかもしれません。 

 と、すると、「嘘の袋」などの感情を詰める「袋」は、全くの架空の比喩的表現などではなく、あたかも体内にある臓器のように、もっとリアリティーのあるものとして認識されていたのかもしれません。
 例えば、「堪忍袋の緒が切れた」などの表現も、単なる比喩的な表現ではなく、実際に、腹立たしい嫌なことを詰め込む袋があり、その緒がプチンと切れて、怒りが飛び出すのだと実際に考えられていたのかもしれません。

 話がかなり脇道にそれてしまったのですが、こうしてみると、ブルガリア民話は吉四六話よりも古い形態であることは間違いないと思います。しかし、だからといって、吉四六話がブルガリア民話から直接取り入れられたというわけではありません。実は日本にも、「うそ袋」という話があるのです。


うそ袋 岩手県稗貫郡 (日本の昔ばなし III  関敬吾・編 岩波文庫 参照)

 嘘つきの名人があった。あるとき、殿さまが嘘五郎をよんで「お前は嘘たれが上手だときくが、おれをうまくだませるか。うまく嘘がつけたら、なんでも望みのものをやる」といった。嘘五郎はかしこまって、「はい、殿さまの仰せですが、じつは嘘たれ袋を家に忘れてきました。小箪笥の上にあるから、どうか家来をやってとってきてもらいたい」と頼んだ。「よし、よし」といって、殿さまは家来をとらせにやった。「そんなものあるはずねえべえ、それも嘘五郎の嘘ですがんす」といわれ、殿さまものっけからだまされたということだ。 


 先に紹介した吉四六話も、元々はこの嘘五郎の話のように、「嘘の種本」ではなく、「嘘の袋」だったのかもしれません。先ほども言いましたように、「嘘の種本」というのは、大変洗練されており、実際にそのような本があっても、不思議ではありません。一方、「嘘の袋」というのは、仮に、リアリティーのあるものとして実感されていたにしても、それは、置き忘れることのできるものであるはずがなく、「嘘の袋を家に置き忘れた」と言われて騙される人は、まずいないはずです。
 しかし、騙されるはずもない突拍子もないことで騙す。というのが、昔話の面白いところかもしれません。例えば、ドイツの、ティル・オイレンシュピーゲルにこんな話があります。


オイレンシュピーゲルがマクデブルクの市惨事会堂の出窓から飛んでみせると公言し、見物人を嘲笑する演説をして帰らせたこと。
(ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら 阿部謹也・訳 岩波文庫 参照)

 あるとき、オイレンシュピーゲルは、市のおえら方たちから人をあっと言わせるようなことをやってみてくれと頼まれて、市参事会堂の出窓から飛んでみせます、と答えました。町は大騒ぎとなり、大人も子供も彼が飛ぶのを見ようと市場に集まって来ました。

 オイレンシュピーゲルは市惨事会堂の出窓に登ると、いまにも飛び出そうとするかのように両腕を動かしてみせました。人びとは総立ちになって目をむき、口をあんぐり開けて、彼が本当に飛ぶとばかり思っていました。するとオイレンシュピーゲルがげらげらと笑いだしていいました。

「これまであっしほど愚かな阿呆は世界中どこを探してもいないと思ってやしたが、だのに皆さん方は阿呆のあっしのいうことを信じておられる。あっしは鵞鳥でも鳥でもないんですぜ。どうして飛べますかい」 というと、人びとをおっぽり出して出窓をおりていってしまいました。
 人びとのなかにはぶつぶつと文句をいう者もいれば、苦笑いしている者もいました。「全くあいつはいたずら者だ。だけどあいつのいうとおりだ」という声も聞かれました。


 この話は、私たちの心の中に潜む、あり得ない事を信じたい。という心理を浮き彫りにし、それがいかに間抜けなことであるかを、教えてくれています。まさに、トリックスターの面目躍如というところです。
 この観点からすると、吉四六話の「嘘の種本」は、あまりにも合理的過ぎて、不合理なものを信じた者を揶揄する。というような、毒が減殺されてしまっているように思えます。

2001/6/26

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