寓話の時代 Chapter XV エリュシクトン Thomas Bulfinch

  エリュシクトンは不遜な人間で、神々を蔑ろにするような男であった。ある時彼は、女神ケレスの神聖な森を、斧で汚すという暴挙に出た。この森には、尊い樫の木が一本あった。この神木は、大変大きくそれ一本で森のように見えた。その太古からの幹は、高くそびえ立ち、奉納の花輪がしばしば捧げられ、この木のニンフに祈願した者が、感謝を表わす碑文が彫られていた。そして、森の精たちが、手と手をとって、よくこの木の周りを踊った。その幹周りは十五尋もあり、そして、他の木々たちが、潅木を下に見るのと同じように、この神木は他の木々たちを遥かに見下ろしていた。それなのに、エリュシクトンは、どうして神木を大切にしなければならぬかということも理解できずに、召使たちにその木を倒すように命じた。召使たちが尻込みすると、彼は斧を一人から取り上げて、不遜にもこう叫んだ。「この木が女神に愛されていようがいまいが、私は気にしない。私の邪魔をするならば、それが女神自身であろうとも、切り倒してやるのだ」
 彼はそう言うと、斧を振り上げた。するとその樫の木は、震えて呻き声を発したように思えた。最初の一撃が幹に振り落とされた時、その傷口から血が流れ出た。見ていた者は皆、恐怖に襲われた。するとその中の一人が、勇を鼓して、諌言して凶行を行うその斧をとどめようとした。エリュシクトンは侮蔑するように見下してこう言った。「お前の信心の報を受け取れ」そして、斧を木から男に転じて、男の身体にたくさんの傷を負わせると首を切り落とした。その時、樫の木の中から、声が聞こえてきた。「わたしはこの木に棲むニンフです。お前は、ケレス様の寵愛を受けるこのあたしを、滅ぼそうとしていますが、お前に予言を与えます。お前には神罰が下るであろう」
 それでもエリュシクトンは、その罪を思いとどまろうとはしなかった。何度も何度も斧が打ち込まれ、ロープが掛けられると、ついに神木は、大音声と共に倒された。そして、その倒木により、森の大部分の木がなぎ倒された。

 木の精のドライアッドたちは、仲間を失い狼狽し、森の尊厳が踏みにじられたのを見て、喪服を身にまとい、皆で女神ケレスの許へと行き、エリュシクトンを罰してくれるようにと嘆願した。女神はうべもなく頷いて頭を縦に振った。すると、大地にたわわに実った穀物も頭を下げた。女神が考えた罰は、もしエリュシクトンが、同情されるような罪人であったならば、誰もが同情するような、恐ろしい刑罰であった。それは、飢餓を彼に送り込むという刑罰であったのだ。女神ケレスは、飢餓に近づくことは出来ない。それは、運命の定めにより、豊穣の女神と飢餓の女神は決して一緒にいることは出来ないからである。そこで女神は、山の精のオレイアスを呼ぶと次のように言った。
「氷に覆われた最果ての地サイアに、木も生えず穀物も実らない、悲しみの不毛の地があります。"寒気"がそこを住処とし、"恐怖"や"戦慄"や"飢餓"が住んでいます。お前は"飢餓"のところへ行き、エリュシクトンの胃袋を我が物にするように彼女に言いなさい。富が彼女を打ち負かさないように、わたしの豊穣の力が彼女を駆逐しないようにします。彼女の住処が遠く離れていても心配ありません。(飢餓はケレスから大変遠いところに住んでいる) わたしの二輪戦車を与えます。ドラゴンたちは速く、そして手綱に忠実です。空を駆け巡り、あっという間にお前を連れて行くことでしょう」
 こうして女神はオレイアスに手綱を与えた。オレイアスはドラゴンを駆り、すぐにサイアの地に着いた。コーカサスの山々まで来ると、彼女はドラゴンたちを止め、石だらけの地に"飢餓"を見つけた。飢餓は、歯と爪で乏しい草を引き集めていた。髪はぼさぼさで、目はくぼみ、顔は青ざめ、唇は蒼白で、顎は埃にまみれ、骨が見えるほど、皮がぴったりとしていた。オレイアスは遠巻きに彼女を見ると(というのも、オレイアスは、彼女に近づく勇気がなかったのだ)、女神ケレスの命令を伝えた。オレイアスはできるだけ短い間しかそこにいなかったし、できるだけ彼女から離れていたのだが、それでも、オレイアスは飢えを感じ始め、ドラゴンの頭を反転させると、テッサリアへと戻って行った。

 "飢餓"は、女神ケレスの命令に従い、大気を駆け抜けエリュシクトンの家へとやって来ると、この罪人の寝室へと入り込み、そして、彼が眠っているのを見つけた。彼女は、彼の気脈に毒を注ぎ込むために、両の翼で彼を抱擁すると、彼に息を吹き込んだ。こうして"飢餓"は仕事を果たすと、急いでこの豊穣の土地を後にして、住み慣れた家へと戻って行った。
 エリュシクトンは、未だに眠っていたのだが、夢の中で食べ物が欲しくなり、まるで何かを食べているかのように、顎を動かした。彼は目覚めると、大変な飢餓感に襲われた。すぐさま彼は、陸の幸、海の幸、空の幸、あらゆるものを目の前に用意させた。しかし彼は、食べている最中にも、腹が減ったと不満をぶちまけた。都市や国家に対しては十分であった貯えも、彼に対しては十分ではなかった。食べれば食べるほど、食べ物への欲求は増大する。彼の飢餓は、全ての川を受け入れても、決して溢れることのない海のようであった。また、うずたかく積まれた薪をことごとく燃やしても、なおも、薪を求める炎のようであった。

 彼の財産は、絶え間ない食べ物の欲求により、急激に減少して行った。しかし、彼の飢餓はおさまることはなかった。ついに、彼は財産をすべて使い果たした。残ったものは娘だけだった。彼女は、もっとよい父親にこそ相応しい娘だった。そして彼は娘さえも売ってしまった。彼女は買われて奴隷となるのが我慢ならず、海辺へ立つと、両手をさしのべて、ネプチューン神に祈りを捧げた。その時、彼女の新しい主人がすぐ近くに迫っていたのだが、彼女の祈りを耳にしたネプチューン神は、彼が彼女を見つけようとしたその瞬間に、娘の姿を変えた。彼女を魚釣りに励む漁師の姿に変えたのだ。
 娘を探していた主人は、姿の変わった彼女を見ると、こんな風に話かけた。
「こんにちは、漁師さん。今、私はここで娘を見かけたのですが、何処に行ったかご存知ありませんか? 髪はぼさぼさで、粗末な服を着て、今、あなたが立っているこの辺りに立っていたはずなのですがね。正直に答えて下されば、あなたに幸運が訪れ、魚は針にかかり、逃げて行ったりしないでしょうがね」
 娘は祈りが通じたことを悟り、自分に発せられた質問を聞いて心の中で歓喜した。そしてこう答えた。
「見知らぬお方よ、お許し下され。この網に熱中していて、他に何も見ておらなんだ。しかし、女であれ男であれ、私以外は、誰もこの辺りにはいなかったと思いますぞ。それが間違いであったら、もう二度と魚が釣れませんように」
 こうして、主人は騙されて戻って行った。奴隷は逃げてしまったと思ったのだ。すると、彼女は以前の姿に戻った。彼女の父親は、娘が未だ自分の許におり、彼女を売って得た金も残っているを見て、大変喜んだ。そして、彼は再び娘を売った。しかし、彼女は売られる度に、ネプチューン神の好意により、ウマや鳥や雄ウシや雄シカに姿を変えられ、買い主のところから家へと逃げ帰った。
 飢えた父親は、こうした卑しい手段で、食べ物を手に入れた。しかし、それでも彼の欲求は満たされなかった。彼は飢えにより、とうとう手足を貪り食うまでになった。彼は自分の身を食って、自分の身を養ったのだ。それは、死が彼を、女神ケレスの復讐から救ってくれるまで続いた。

(日本語訳 Keigo Hayami)


別な版では、(CHAPTER XXII エリュシクトン)
ギリシア・ローマ神話 伝説の時代 p304 (大久保博訳 角川文庫)  

変身物語 上 p341(中村善也訳 岩波文庫)
ギリシア神話 上 p276(呉茂一 新潮社文庫)

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