愚かなロボット

次は、2001年2月9日の朝日新聞朝刊に載っていた「ロボットに未来はあるか」という論文です。

黒崎政男 東京女子大学教授(哲学)

『ロボットの魂』というSF小説で、バリントン・J・ベリーは興味深い描写をしている。出来の良くないロボットたちが<或る要人が暗殺部隊によって殺害されることを阻止せよ>という命令を受けた。混乱したロボットが試行錯誤の結果、見いだした結論はこれだった。
 「ごらんください---われわれが自らの手で殺しました! どんなに優秀な暗殺者でも、もう任務の遂行は無理です!」(大森望訳、創元SF文庫)
 人間なら、守るべき人物を殺してしまっては元も子もないことを知っている。この逸話(ママ)は、われわれ人間が有している、当然すぎて語られることのない<常識>や暗黙の<前提>などをロボットに教えることの根本的な困難を暗示している。

以下省略


ロボットの無能さを示す面白い話ですが、こういった話はたくさんあるので列挙してみます。

・ロボットにモグラを退治するように命じたところ、花壇ごと土を掘り返す。

・ロボットに家の虫を退治するように命じたところ、家が焼かれる。

・召使ロボットに、ポットをテーブルに置くように命じたところ、置く場所がないので、テーブルの皿が叩き割られる。

・召使ロボットに、シャツを着せてくれるようにと命じたところ、襟首がきつくて頭が通らないので、主人の首がちょん切られる。

 この他にも、またまだ、たくさんあるのですが、しかし、実はここに挙げた例は、ロボットの話ではなく、民話によく出てくる「愚か者」を「ロボット」と言い換えたものなのです。先のペリーの話にも全く同じ型の話が存在します。

・愚か者は、トウモロコシが風で飛ばされないようにと、トウモロコシを切り倒す。

 これは、人間を殺すかトウモロコシを切り倒すかの違いだけで、話の構造は、先のベリーの話と全く同じです。と、するとロボットの「愚かさ」とは、民話の「愚か者」と同質の愚かさであるということになり、大変人間的であるとも言えるかも知れません。
 ところで、ここに挙げた「愚か者」は、命令に対して忠実であったために、「かえって被害をもたらしてしまう」というものなのですが、これは、「素直である」とか「正直である」 というような本来ならば誉められるべき部分なのです。例えば、車を運転していて事故を起こした場合、それは、車が愚かだったから事故が起きたのではなく、運転手のハンドル操作が未熟だったから事故が起きたのです。つまり、本当の愚か者は、命令に忠実だったロボットではなく、命令を出した主人の方なのです。賢い主人ならば、ロボットの正直さをうまく利用できるはずです。


ソーセージの雨

 ある日、賢いマリアは、召使のロボットに、羊を水飲み場に連れて行くようにと、言いつけた。するとロボットは、そこでお金のたくさん入った財布を見つけた。ロボットは財布を持ち帰って、主人に言った。
「この財布が、水飲み場に落ちていました。」
 賢いマリアは、ロボットから財布を受け取ると、それを懐に入れてしまった。そして、その夜のこと、彼女は屋根に上がると、ソーセージを撒いた。ロボットは、ソーセージが天から降って来たのだと思い、ソーセージを拾った。

 それからしばらくして、ロボットがまた、羊を水飲み場へと連れて行くと、財布をなくした人たちがそこに来ていた。そしてロボットに、お金の入った財布を知らないか? と尋ねた。ロボットは、「知っています。私がみつけました。」と答え、「財布は、わたしの主人が持っています。」と、その人たちに教えた。
 人々はロボットと一緒に、賢いマリアの所にやって来ると、お金の入った財布を返してくれるようにと頼んだ。マリアは「そんな物は知りません。このロボットは財布など拾っていません」と答えた。すると、ロボットは主人に言った。
「ご主人様は覚えていないのですか? ソーセージが空から降って来た日のことですよ!」
 男たちはその言葉を聞いて言った。
「ああ、奥さん。このロボットは故障していたんですね」
 そして、もう財布のことは諦め、その代わりに、ロボットの修理代として、幾ばくかのお金をマリアに与えて帰って行った。
(ソーセージの雨 Type 1381B)


この話も、「愚かな亭主」を、「ロボット」に置き換えただけなのですが、このように、賢い主人ならば、ロボットの正直さをうまく利用できるのです。

 ところで、先のベリーの話に出てくる、要人を殺してしまったロボットたちは、本当に、愚か者だったのでしょうか? 恐らくロボットたちは、あらゆる角度から、暗殺部隊から要人を守る手立てを考えたはずです。しかし、結局守りきれないという答えが出たのでしょう。果たしてこの場合、ロボットたちの行為は、愚かであると決め付けてよいものでしょうか・・・?

 ロバート・レッドフォード主演の映画に、「華麗なる飛行機野郎」という作品がありました。その中で、主人公の友人が、「逆宙返り」という曲乗り飛行をするのですが、失敗して墜落してしまいます。主人公のペッパーが、急いで駆けつけると、友人は、運よく生きています。しかし、野次馬の投げたタバコの火が、飛行機の燃料に引火してしまいます。ペッパーは、何とか友人を助け出そうとするのですが、友人は機体にはさまれていて、どうしても抜け出せません。野次馬たちに手伝ってくれるようにと頼むのですが、誰も手伝ってくれません。火がどんどん燃え広がります。友人は叫び声を上げます。ペッパーは、どうしようもなく、傍に落ちていた棒切れで、友人を殴り殺してしまいます。

 さて、このペッパーの行為は、愚かな行為と言えるでしょうか? 更に、戦国時代の大将は、戦いに敗れると、敵に捕まる前に、自ら命を絶つことがあったようです。こういったことを、突き詰めて行くと、ロボットたちの行為にも、安楽死の問題や、名誉による死をどのように捉えるべきか? というようなことが内在しているように思えます。

2001/11/22

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